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雑誌に書けないみーたん
2008.06.11 Wed
「原稿がなくなりました」 13年程この仕事をしていますが、僕自身は今までそういう問題が起きたことはありません。 実を言うと一回くらい起きて欲しいなというくらいです。 その昔、ある編集さんがある編集部に赴いたときに足下に手塚大先生の原稿が散らばっていたと言うことがあったそうです。 そんなぞんざいな時代もあったんですね。いや、ぞんざいな出版社もあったというべきでしょうか。 今では手塚先生はお亡くなりになってしまったわけですが、その原稿の芸術的価値という物は測り知れません。 人気作品のカラー本物原稿となればファンがいくら出してでも欲しい物なのでしょう。 生原稿という物に価値をつける場合その作家、人気度、時代で価値はいくらでも変わってきます。 しかし、私達が出版社とお仕事をするとき、その原稿料はある意味「掲載料」というものに再換算され皆さんが普段よく聞く原稿料となります。 人気があるとその原稿は単行本となり、発行部数による印税の一部を構成するようになります。 実は原稿料という物は作家作家で違い、作家個人の申告により決定されます。(週間連載になった途端一定金額まで自動的にアップされる場合もあります。) ここは駆け引きが必要で、新人にも関わらず稿料を高値にすると仕事が無くなります。 人気のある作家が人気のある時期に高値にしたとしても、人気連載が終わり人気の無くなったあたりにその稿料のままだと出版社はその作家を使いにくくなります。 その上、一度稿料を上げると下げにくいという現実もあります、 さて、通常ならあり得ない話ですが、編集部が”預かっている作家の原稿”を無くしたという事象が発生した場合、作家は損害賠償を出版社に請求することができます。 前述したとおり、作家は掲載してもらっているわけですが、決して原稿を出版社に売り渡したわけではありません。 厳密に言えば、掲載する場合に至っての掲載料として、稿料を支払ってもらっているに過ぎません。 原稿は作家本人の申し出により返却が行わなければならない決まりです。 その証拠に、みなさんもご存じかも知れませんが、A出版社から出た単行本が装幀を替えてB出版社から発行された物を見ることがあるでしょう。 それは出版契約期間の終わった原稿を作家が別出版社へ打診、もしくは発行依頼があった結果です。 原稿は単行本になる際に契約書が送られてきますが、発行してから3〜5年はその出版社との契約が取り決められることがほとんどです。 人気の無い出版物に置いては契約が続行されているにも関わらず絶版という状態になっている作品も多いのが現状です。 その後は基本的に何も問題がない場合、契約は自動更新される場合が通常のようです。 実際、連載開始時では契約書が交わされることはほとんどないと言って良いでしょう。かなりアバウトなように聞こえますが、それが現時点での日本の出版物に関する現状です。 弱小出版社においては単行本発行の際においても、出版契約書すら交わされない場合も多くあります。 まだ(良心的な)(弱小)出版社であれば(出版、再版等の)打診があり再版の運びとなりますが、ところによると出版契約書を交わしていないにも関わらず、何も言わずに勝手に増版してしまったりして、場合によっては問題を起こしたりします。 そんな価値のある漫画原稿ですが、生原稿でも僕の原稿と手塚先生の原稿では天と地の差があります。言わずもがなですが。 それに原稿の価値を決める素材として小説なのか、絵なのかでまた変わってきます。 例えば文豪と言われた人の生原稿に値段がつくこともありますね。 人気作家の生原稿には価値がつきますが、それはファンがつける「マニア価格」で、商業的には活字となって初めて価値がつく物だと思います。 例えば、生原稿がそのまま印刷されても読みにくいだけですね。テキストで入稿されたCD-Rに価値がつくかと言えばちょっと難しいでしょう。 さぁ、そんな漫画原稿。仮に出版社が生原稿を紛失し著作者がその損害賠償を訴え出た場合、裁判でその生原稿に価値がつけられるとすればいかほどのものでしょうか。 考えられる価値としては 1,出版社、発行誌に掲載という形として発行物に掲載される際の価値 2,ファンがつけるオークション的な価格としての価値(時価ではある) 3,出版物として発行した場合に対してつく商業的価値(後術) の3つに別れると思われます。 1に関しては、通常「原稿料」と言われる物になります。 2は、その原稿が一般に出回った場合につく付加価値です。(オークション等) 3は、仮にその原稿が掲載された事による発行物が生み出した価値から換算したページあたりの単価から計算されるだろう原稿の価値です。(例:その原稿が使用された発行物、印刷発行物の部数、印税率、または以後発行された場合の予想できる発行部数から計算されるページあたりの価値、または映像化等による際の参考資料としての価値)(※後述により同一出版社の場合意味をなさない場合もある) 例外ですが、中には本宮ひろ志先生のように「価値を認めてくれるファンが持っていてくれた方が良い」という見地から雑誌上で”生原稿”をプレゼントする作家の例もあります。 なぜ、このような太っ腹なことができるかというと、単行本等にする際、出版社は原稿を撮影して印刷用の版を作ります。コイツを作ればその版が無くならない限り、原稿が無くともバンバン印刷できるわけです。とはいえ、本宮先生のような事ができる人は業界広しといえどもほとんどいません。例外です。本当に例外です。 さて、上記で散々述べてきましたが、一般的に漫画原稿といわれるものは 「使い回しがきき、(前出版社において稿料を支払われたとしても)利益をさらに生み出す可能性がある物であり、芸術的観点(人気度、芸術観点からの評価による)からもその完成原稿は一定の価値がある」ものです。 仮にピカソが存命の際、原画を預かり出版物を発行した出版社がその原画を紛失したとしたらどうでしょう? この場合は本人が訴え出た時点での価値で換算され損害賠償が支払われる結果になる可能性が大です。(その後、その人物が亡くなり存命時より価値が上がったとしても、その時点での価値で支払われる事になると思います。) 現在においてもその時の価値に従って損害賠償を払えばその場では終わるでしょうが、問題はそういうことではありません。作家からすると同じ本人が描いても同じ作品はできあがりません。発行物に掲載された物であればなおさら、掲載された物と全く同じ物はありません。 人気作品になると、その原稿は色んな所に使い回されます。そうこうしているうちに管理している人が誰かわからなくなり、行方がわからなくなってしまう。そんなこともあるようです。全ての原稿を扱う人が、とは言いませんが、出版社は原稿を日常扱っているが故にその価値に対して非常に疎いのが現状です。立場の弱い作家なら紛失されてもその価値を訴え出ることなど許されません。 実は出版社にも同じように発行物という著作物があります。 たとえば、「週刊○○」のように毎週発行される漫画雑誌。もしくはそれ相当の発行物です。これは発行された時点で、国会図書館、出版社、読者、それを扱う古書店に大まかではありますが、出回る形になります。 さて、仮に、ですが、出版社が保存している最後の一冊が何かで紛失”された”場合、出版社としてはやはり自社の発行物であり、歴史でもあるわけですから取り戻し、取りそろえたいのが当然ですね。前述のように国会図書館にもありますが、全ページコピーを取ってハイおしまいでありません。それが発行1号などであればなおさらです。 その場合、「印刷版のマスター」はないのが当然ですから、やはり発行物を揃えたいですね。もしもそれが後年人気雑誌となった創刊号だった場合、世に出回った販売価格では手に入らないのが現状です。発行物が多ければ多い程、その価値は薄くなり、買い戻すにしてもある程度楽なわけですが、これが「たった一冊しか現存しない」物だった場合、その価値はいかほどでしょうか? その上、仮に、ですが「たった一冊しかないその原本を誰かに貸して、それを紛失した場合」どんな価値を生み出すでしょうか?肉筆も、印刷物もその原本のみの場合である限りその価値はいかなる物でしょう?それを「紛失するのがこの業界の当然」、「無くしたけど許してネ♡」など、もしもそんなことを借り手が口走ったら、それは僕でなくとも世論が十分に判断するのでしょう。 原稿を紛失した場合、それを預かった立場から言う言葉は簡単です。 心を込めた謝罪。それが人としての当然の行動だからです。場合によってはそれが解決となった場合もあります。普段から”それ”がなされていない場合、トラブルに陥るのだと思います。きちんと価値をわかっている場合、損害賠償にも納得の代金を支払う用意があるはずです。 ちなみに僕は全部デジタル入稿なので、原稿を無くされても全然大丈夫ですが、以前、光回線が通っていない時期にCD-Rで入稿していた事があります。 原稿が戻ってきたときに「いや、別にデータはいいですよ」と言ったにも関わらず CD-Rまできっちり戻ってきました。 まともな編集というのはこういう者です。 2008.06.08 Sun
昨日、土曜日。 たまたまテレビをつけていたらNHKの「マイロード」という番組が放映されていました。 初めて視聴しましたが、月ごとに各人の自叙伝をインタビューで振り返るという番組で、昨日は沢村一樹さんが出演しているものでした。 飾らない番組で非常に好印象を感じました。 沢村さんご自身は、自身を「エロ紳士」と自称する程の方で僕は大好きです。 (サラリーマンNEOにも出ているし) 誰しも下積み、もしくは成功するまでの時間と言う物があります。 もちろん、成功と呼ばれる程の成功というものでなくとも、自分が自分たり得るまでの時間という物があります。 僕はそれを「自信のない時期」と呼んでいます。 好きな物、ファッション、化粧、自分は何ができるのか、そして自身の考え方。 人は誰もが自分をうまく表現できないときに何かに頼ろうとする時期があります。 ある時は好きなアーティスト、ある時は好きな作品、ネットでは信者と言う場合もあるでしょう。 好きな物を馬鹿にされるとまるで自分のことを馬鹿にされたように怒るなんて、 そんなことは中高生時代だと顕著かもしれませんね。 自分にある程度自信が持てるようになると、自分の好きな物をけなされても動じなくなります。 僕が好きな物を誰かが嫌いなように、僕が嫌いな物を誰かが好きなんだろう。 その事実を受け入れられたときに、他人の主張を受け入れられたときに、 ちょっとだけ人は成長するのだと思います。 世の中は自分の好きな物だけで構成されてはいません。 それが正論や正義と呼ばれる美しい物だとしても、です。 「好きな物を好き」だと表現できるのは非常に素敵なことだと思います。 ただ何事も人に迷惑をかけない程度が一番望ましいのは言うまでもありません。 さて、この「マイロード」という番組の最後。 EDには夏木マリさんの「上弦の月」という曲が流れます。 僕はこの曲に非常に感銘を受けました。 とても、とても、良い曲です。 CD自体は出ていないようですが、ダウンロード販売ではお目にかかることができるようです。 僕のMacではiTunesStoreで手に入れてヘビーローテーションとなっています。 歌詞が見つからなかったので、自分の耳で聞き、文章に打って楽しんでいます。 カラオケにも見つからないようので、いつか登録されればいいなと思っています。 何が言いたかったかというと、 沢村さんはエロなので好き。 若者は自信が持てるまで何事もがむしゃらに頑張りなさい。 湯婆婆の歌は良い。という事です。 少し長くなりましたが。 ふと、自分に自信のなかった時代を思い出したものです。 あなたは「自身の自信」をお持ちですか? 2008.06.06 Fri
とりあえず。 夏コミ受かりました。 8/17日曜東M-38b「A-office」です。 今回は自分のサークルの他にゲスト寄稿の予定もあります。 そちらの方もおいおい発表いたします。 さーて、今回みーたん関連はあるのでしょうかね? 全く何も考えておりません。 といいますか、それを望んでいる人はいるのだろうかと。 とらから戻ってくるみーたんの本におびえながらくらしています。
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